作品説明

「なぜ、このような写真を撮っているんですか?」
とよく人に聞かれる。たまたま通りすがりで展示に立ち寄った人ならばなおさらだ。
人が死んでいるような写真――目を背ける人も多いこの作品に興味を持っていただいたからには、できるだけ作品の意図を正確に伝えたい。だから、私はいつも順を追って、極力丁寧に答えているつもりだ。この作品説明もその順で進めていこうと思う。

ただその前に、お伝えしておきたいことがある。「No Reason」は全100組の撮影を持って完結することがひとまずの目標と設定している。この「No Reason Digital Book 01」で掲載しているのは43組、つまりいまもなお制作途中であることをご了承いただきたいと思う。そして、完成をお待ちいただけると幸いだ(2014年頃を予定)。

さて、この作品説明には、ポイントが大きく4つある。
1)写真作品の前提は「日常における非日常を捉えること」だとすれば、「日常における非日常の極限を捉えること」を私は欲した。それがその時点の私にとって「死」だった。
2)ただし、「死」を撮る方法論はいくつかあり、その中でも私は「疑似死体」という手法を選んだ。しかし「疑似死体写真」は珍しくない。
3)いま私が抱える現代日本に対する問題意識とそれらを表現するための手法として疑似死体を用いることが、意義ある作品づくりにつながるのではないかと考えた。
4)作品をつくりはじめると、「疑似死体写真」への反響が大きいのと同時に、「疑似死体行為」にもある種の効果があり、制作を続けるモチベーションになった。

以下、ひとつずつお話しをしていこうと思うが、長くなるため、「No Reason」とは何か?をまずここで一言でお伝えしておきたい。

「No Reason とは、生と死に対する意識が希薄な現代日本社会に点在するさまざまな問題を織り込んだファンタジー作品である。」

では、冒頭のポイントを個別に説明していこう。

1)について

言わずもがなだと思う。道ばたに人知れず咲いている花や、普段見ない綺麗な夕焼けや景色。それらを見たときの心の揺れを残そう(伝えよう)として、人は写真を撮る。写真の大きな記録という機能。このような「日常における非日常」こそが写真作品の前提の大きな部分を占めている。
私も数年間、そのような写真を撮り続けていたが物足りなさを感じはじめたため、「日常における非日常の割合を増やす」ことにした。だが中途半端な割合で撮影した写真では満足できなかった。
その結果、「日常における最大の非日常」を撮ろうと考え、それが私にとっては「死」だったのだ。それも動物や植物ではなく、「人」の死を。

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2)について

「死」を撮る方法論や疑似死体については、ご存じでない方へも、すでにご存じの方へも詳しく説明する必要があると思うので、多少長くなるがお付き合いいただきたい。

2)-1. 疑似死体写真とは

冒頭から「疑似死体」という言葉を用いているが、その語感だけで嫌悪感を示されたり、疑似死体ってなに?と思われる方も多いことだろう。
まず「疑似」というからには医学的にいう「死体」ではない。擬似的に死体を演じる生きた人間を撮る「疑似死体写真」と、医学的に死に至った人間を撮影する「死体写真」は被写体の性質も撮影プロセスも異なることから、写真の種別として分類を異にすべきだ。
加えて、「疑似死体」の歴史は、写真史上においてはかなり古い。(もちろんそういう分類は当時には無い)19世紀前半のフランスにおいて、写真発明競争にわずかで敗れたイポリット・バヤール(仏)が、フランス化学・芸術アカデミーに対する抗議の意味を込めて、身投げして溺死した人体に扮装した自分自身を撮影して公表したのが最初と言われている。
まだ写真が発明されたばかりの頃のフィルムの感度は相当悪く、長い露光時間を必要としたため、被写体はその間、静止することを余儀なくされた。絶望したバヤールが抗議したい気持ちを押し殺しカメラの前に立ち続けた心境はどのようなものだっただろうか。
その後も、セルフ・ポートレートで有名なシンディ・シャーマン氏は「死することで女性は女性であることから解放されるか」をテーマとして疑似死体写真(これもセルフ・ポートレートだった)を撮ったことはよく知られている。
また、日本においてもファッション・フォトグラファーとして高名な伊島薫氏は「死体のある風景」で、ファッション写真という枠組みにおいて女優性と商業主義と作品性を高度な次元で融合し、美術作品として結実させていることを知っておられる方も多いだろう。

いずれも、「死」を通じて何らかのテーマを訴えかける写真であろうことに異論はないはずだ。しかしながら、身も蓋もない言い方をしてしまえば、すべからく疑似死体写真のモデルは、撮影前も撮影後もみな生きている。

2)-2. 死体写真ではなく、なぜ疑似死体写真なのか

ではなぜ撮影対象が死体ではなく、疑似死体なのか?
私にとって、その疑問に対する回答は「死体を撮影し発表するのが目的ではないため」だ。その理由は3)でご説明するとおり、「疑似死体」を通じて表現したいテーマが私には存在するため、そのテーマに沿った自分が望む撮影環境・撮影シーンを作り出しやすいという点で、私にとっては「疑似死体」が「死体」に勝る。

本来は、比較対象となっている「死体写真」についても詳しく論じるべきだ。しかし、私が死体写真について論ずるほど十分に撮影体験や思考経験を持たないことから、あえて省略させていただく。私は死体写真が医学的にも芸術的にも存在意義があると認識しており、その存在を肯定していることだけはお伝えしておきたい。

※死体写真の補足:
死体写真では、Joel-Peter Witkin氏作品があまりにも有名。その他カトリック圏内では写真発明からほどなく「postmoterm photography」という死者の肖像を記録として残す写真が大量につくられた。アメリカにおける19世紀半ばから20世紀初めの postmoterm photographyをまとめた「SLEEPING BEAUTY : Memorial Photography in America」が貴重な記録となっている。近年日本では釣崎清隆氏が有名。
Joel-Peter Witkin in FINE ART PHOTOGRAPHY
http://www.masters-of-fine-art-photography.com/02/artphotogallery/photographers/joel_peter_witkin_01.html
SLEEPING BEAUTY 2
http://www.sleepingbeauty2.com/pages/images.html

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3)について

ここまで述べてきたように、疑似死体写真は珍しくない。偉大な先人も作品を多く残されている。 なのに、なぜ、私が疑似死体写真を撮るのか。
その理由は、「自殺願望がこれまで幾度となくあったにもかかわらず、いま生きている自分」への疑念や「非常に多くの人が自殺し、また無差別大量殺人が起こる現代日本社会」への問題意識、そして「死をモチーフとした疑似死体写真」が自分の中で結びついたからだ。

実は、私はこの作品を制作するまで、血はもちろんのことホラー映画の類は苦手で、極力避けていたため、ほとんど見たことがなかった。
しかし、モチーフを「死」とすることがすぐに脳裏に浮かんだときには、血を用いた表現が不可欠であると考えた。いまでも、われながら不思議なことだが、そのことには驚きも何も感じなかった。

死をモチーフにしたいと思ったのは、現在日本では、毎年自殺者が3万人を越えており、また通り魔殺人や無差別大量殺人などが後を絶たないという社会であるにもかかわらず、そういった生死に関わる深刻な問題がある一方で、日常生活においてはこういった深刻な問題が、禁忌というバイアスだけではなく、ある種の事なかれ主義や商業主義に比重を置いた情報伝達といった現代社会に漂う暗黙の了解によって覆い隠されているかのように感じられたからだ。

日本の偉大な哲学家である鷲田清一氏が「死なないでいる理由」でも述べられているとおり、私たちは高度経済化する過程において、さまざまな機能を「外部サービス」に委ねるようになった。自宅で死を迎える人は、2003年では1%を切っている(データとしては古いが)。終末期と呼ばれる死を目前にした人たちが死に場所を選ぶ権利も、死を目前にする機会も少なくなってしまっているのだ。

無論、死の場面だけではない。ポストモダン化してしまっている社会のいたるところで、つまり家庭や地域社会の機能が統制を失い、現状の日本は無縁社会と呼ばれる状態だ。選択する権利はあっても、先行きに漠然とした不安を抱え、自分のリスクを最小化しようとする。「生きている実感」も薄く、死を目の当たりにする機会が少ないために「死ぬ実感」も薄い社会。
果たしてこのような社会を私たちは求めているのだろうか?

私の答えは「NO」だ。ゆえに現代で生きる私たちにとって、目を背け続けると取り返しが付かない日本社会の抱える問題を表現することで、私の作品を見てくださる方々が、各々の身の回りの死や生にまつわる現状について見直す機会を提供する、ということを本作品の目的としている。

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4)について

この作品でご登場いただくモデルの方々は、立場や年齢がさまざまだ。制作開始当初はそれまでに何度か撮影したモデルさんにお願いしていることが多かったが、いまはこちらから募集をかけなくても、定期的にモデル応募者がある状態で、作品をつくる者としてはありがたい限りだ。
それも展示の告知や発表を重ねたり写真集を自費で出したりといった私ひとりの努力だけではなく、モデルになっていただいた方や展示をご覧になられた方が口コミで広げていただいているおかげであることを重々承知している。

そういう具合のため、私は余程でない限り「モデルを選んでいない」のだ(ただし撮影はしても発表しないこともあり得ことを希望者には事前にご承諾いただいている)。
だから、まず「なぜ疑似死体モデルになりたいのか」や「どのような死因(orシーン)で死にたいか」といったことをメールなどで対話を重ね、ときには半ばカウンセリングのようなことをしている。今までにモデルになっていただいた方は、自殺未遂経験、リストカット経験、鬱病、統合失調症、薬物依存、希死念慮が強い、などさまざまな症状を持っている。もちろん精神疾患を持たない方もいらっしゃるが。

こうして対話の末に「モデルの希望を叶える」つまり、「こういう死に方をしたいという希望を擬似的にシーンとして作り上げ」、さらにそれを写真にすることで、「たとえ疑似であっても死を達成した自己を客観視(俯瞰して見る)する」ことを少しだができるようになる。そのためか、死にたい願望が一時的に満たされて、死にたい願望が収縮するという効果がみられた。
実際、モデルの方から「すっきりした」「楽しかった」「また(疑似死体で)撮ってほしい」というポジティブな意見をいただくことも多く、この事実は私にこの作品制作を続ける大きなモチベーションとなっている。

またWEBで検索エンジンなどから私の作品を知り、興味を持っていただける方も多く、その大半が「生と死」について敏感に反応し、自らの「生と死」についても世相を反映した現代的な感覚を持っている方が多いと実感している。虚構の時代、無縁社会などさまざまな言われ方がされるなかで、その感覚は、おそらく私が高校生だった20年前には実感し得なかった感覚だ。
それらを空気で感じとれる間は、今後も作品を撮り続けて、展示していきたいと考えている。

この長い文章に最後までお付き合いいただきありがとうございました。
あなたに、健やかで安らかな「生と死」があらんことを願って。

2011年5月
Masashi Furuka (旧作家名:masashi_furuka)

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