誰かと誰かをつなぐアート。それが彼らの未来へつながる。

思えば挫折と遠回りを繰り返している。それはいまに始まったことではなく、20代前半からだ。
いろいろな周囲の意見や思惑・状況に意識的か無意識かもわからないまま時が何かを変えることを待っていた時期があった。そのこと自体に善悪を判断する基準もなく、いや正確に言えば、そのような善悪は自分が死ぬ時に主観的に判別し、死ぬ時に周囲が知るかどうかもわからず、時間の狭間にとり残されていけばいい、そう思っていた。

これまで書いたように、絵露愚乱末世の運営に強い疲労感を覚えたままの時期が続いた。

ただ、その時に参加したいという強い想いを持った作家がいたことをずっと覚えているし、時が流れる中で展示は労力もかかるのでイベントだけでもやってはどうかとの周囲からの提案もあった。

しかし、俺は動かなかったし動けなかった。
時が過ぎゆくなかで「俺が動かなければ、絵露愚乱末世も動かない」ことだけは理解できた。

俺に気を遣おうが、遣おうまいが。

2016年の4月のアートを取りなく状況というのは、コマーシャルアートはともかく、はっきり言って「つまらない」と感じた。
シェアやイイねの数が作品の評価指標足り得る世界なんて多くの作家は望んでいない。それだけのコミュニケーションなんて味気ない。

誰かに届けと想いを込められた作品はイイねやコメントだけでは、計り知れない魅力がきっとある。

俺はアート界の状況とかなんて知りはしない。

ただ、真摯に個々の状況と向き合い、誰かに届けと想いを込めて作品を作り続ける作家たちの作品を、誰かに届けられる一助になればと、再び絵露愚乱末世を再起動した。

そこで繋がる作家と観客が、いずれ「彼らを取り巻くアートの状況」を変えていく。

そう信じている。

 

絵露愚乱末世公式ブログ : http://eroguro.grats.jp