重松作品とか。

「流星ワゴン」を読了した後、「みぞれ」「トワイライト」と読んで、いまは「哀愁的東京」を読んでいる。(ん?なんか、一冊忘れているかも)

わりと主要人物が、40歳前後で、東京を舞台、妻子持ち、子供は小学生男子、主人公が頭はそこそこ良いがやや勇気のパラメータが低い昔は秀才タイプで、すべからくリストラされてしまう(笑)、など似た境遇が多くて、区別がつかない(区別する必要もないのだけれど)。
オレの境遇とは、やや異なるが、底辺に流れる男のセンチメンタリズムには共感するところは、ある。
ま、もうちょっといろいろ読んでみないと。

流星ワゴン、表現。

最近小説を読んでいなかった。大好きな浅田先生の作品で読みたいものを、あらかた読んでしまったから。
他の作家の小説もちょこちょこ読むけど、他の作品も読みたい!と食いつく作家もいなかった。

小説を読まないと、ずっと携帯電話を触り続けるオレは、その不健康を久しぶりに取っ払うべく、流星ワゴン(作 重松清)を読み始めた。

親子という関係を清々しく描かれていて、加えて舞台が現代ということもあって、一気に読み終えてしまった。
主人公たちとは年代が近いため親近感を覚えつつも、全く異なる境遇に身を置くオレは、理解も想像も共感もできるにも関わらず、実感が乏しいため、やや引いた目で読んでしまった。

根底に流れる「日々の生活における幸せの不確かさ」への認識と「苦境にあっても前へ進む努力の美しさ」は、拙作「Alices」や「セツナイ太陽」と共通していて、同時代性を感じる。
ま、普遍的なテーマではあるけれども。

先日、人からあるイベントの撮影を頼まれた際、「記録と表現の両方を撮りましょうか」という言葉が、瞬間的に出た。
室内だし、夜だし、できることは「偏る」けど、アグレッシブに撮ろうと思う。

セツナイ太陽の展示風景の現像とプリントがあがってきたので、百音へ持っていった。
「記録」よりも、「表現」が多く含まれている写真を百音のアルバムに置いてきた。

台風の後の順光の町並みは、やたら立体的できれいに見える。空も高い。
深呼吸をしてみたら、少しだけ涙がこぼれた。