masashi_furukaらしさを考えてみた

もう来週にはポートフォリオ展が始まる。新しい作品を出したいとは思うのだけれど、ちょっと時間的に難しそうだ。
今週の土曜日には決めないと。

「セツナイ太陽」は、全体像と柱は見えている。
しかし。
時間が取れず、作業が進んでいない。そろそろ徹夜をしてでも巻き返さないと。
展示方法も頭の中ではできていて、前作Alicesとは違うmasashi_furukaらしい作品と展示になるはずです。
今までのmasashi_furuka作品に、少しでも興味を持っていただけた方には、ぜひご覧いただきたい。

なので、Flickrには出し惜しみしている(笑)

いつもそうなんだけれど、一つの展示を考えていると、次に展示したいイメージもぼんやりと浮かんでくる。
それは点や線ではなくて、面的な像で印象の集合体のようなもの。

それは、一つの作品を作る過程で切り捨てたモノや、捉えられず過ぎ去ったコトが、意味ではなく印象の塊となって心の中にふわふわと浮いている。
それをぼーっと眺めていると、心の中で複数の塊がくっついたり、また離れたりして、大きくなったり小さくなったりしながら、その不安定なカタチのまま、漂い続けているのが、わかる。

作品づくりに集中すると、それらの存在を忘れてしまうのだけれど、ふと気付くと、いつまでもカタチが不安定なまま、漂い続けている。

できるなら、展示ではひとつひとつの作品のみを見せたくない。
上に書いたように、印象の集合体として漂う塊を、展示として提示することが、一番自分らしい作品だと思うから。

だからこそオレは展示という手法が、自分の印象の認識の仕方に近いという理由で、好きなんだと思う。

いつだって、作品の目的は、作品を見るひとに何らかの印象を与えて何かを生み出すことだ。

オレの印象は作品を作る上での道標であって、自己満足という終点であってはならない。

自分だけの印象には責任を持てないからこそ、作品に責任を持ちたい。

だから、苦手なんだろうな。
心象風景を1枚で現すのは。
いまわかった(笑)