No Reason「File05:死後」に寄せて〜ステートメント〜

今回の個展、Masashi Furuka 写真展「File05:死後」の会場に掲示しているステートメントをブログにも掲載しておきます。

No Reason「File05:死後」に寄せて

2009年に「No Reason」と題した疑似死体写真を撮り始め、初めて展示をしたのが、ここ新宿眼科画廊でした。思えば本シリーズで100作品つくるぞ!と目標を掲げたのもそのとき。
作品のメッセージはその後も変えることなく、2012年までに50作品を制作し続け、4回の個展を新宿眼科画廊でおこないました。

それから3年半の間、わたしは病状や経済状況などが奮わず、グループ展の主催やイベントなどを手掛けるものの、この作品の制作をすることがありませんでした。
もちろん、このシリーズの制作を再開したいと常に願っていたのは言うまでもありません。

しかし再開するためには、それ相応の困難さがありました。
取り扱っているテーマの重さ、モデルをしてくれた知人の死、作品の方向性の行き詰まり・・・。

一方で、仕事の撮影ではいろいろな状況で何百人を撮影しました。
考えなくても撮れる、というと語弊はありますが、機械のごとく、注文に応じて反射的に習慣だけで撮影を済ませてしまう自分がいました。

制作再開への強い動機は、生まれ育った場所を見つめ直したとき、ふと「死後」をテーマに撮ろうと決意したことにあります。
なぜ生まれ育った場所を見つめ直すことが、「死後」とつながったのかは、自分でもよくわかりません。ただ「撮らなければならない」と強く思ったのは確かでした。

いま振り返ると、自分の出生を見つめ直すことで(わたしは出生の場所を数十年遠ざけていました)、ようやく「自分にまつわる死」について向き合うことを覚悟したのだと思います。
思えば、それまでの作品は「他人が望む死」や「他人に似合う死」、「神話を題材にした借り物の死」などを撮る、つまり自分の外に「死のかたち」を求め、向き合う作業が中心でした。
それらは決して悪いことではありませんが、「自分にまつわる死」とは違っていました。

この作品を制作する途中、わたしの母が急逝しました。
寡黙で勤勉で人の悪口を一切言わない、慈悲深く、尊敬すべき女性でした。
人生で最も涙を流したあの3日間のことは忘れられません。

普遍的な「生と死」をひとりの写真家として見つめ続けるいまも、「生と死」を実感することについては、鑑賞者の血縁者や愛する人の死には到底及ばないと思っています。
私自身も、母の死を通してみれば、「生と死」は至極プライベートなものではないか、と思考停止に陥りそうになってしまう。
それでもなお、及ばないことを理解しつつも、写真を通じて「生と死」を描くことは無意味ではないでしょう。それが写真だし、それもアートだと私は思うから。

2018年のいま、わたしたちを取り巻く状況は2009年から良くなったのでしょうか。
日本の総自殺者数は2010年以後減り続けています。
しかし、2017年度唯一前年度より増えたのが未成年者たちの自殺。
また自殺願望者をターゲットにした連続殺人などの凶悪な犯罪も記憶に新しいことでしょう。

未成年者たちは、何をみて何を思い、生きて、死を選んだのでしょうか。

わたしがこの作品を作り始めたころと「問題の根っこは変わっていない」と思っています。
現代の日本人が失ってしまった”生への尊厳”や”死への畏怖”といった心情を。
森羅万象に宿る神と魂を。花鳥風月を愛でる繊細な感覚を。ただ純粋で愚直なまでの美しさを。

これからも撮り続ける決意をあらたに。
そして、愛する人よ、いついつまでも安らかに。

2018年1月 Masashi Furuka (Photographer)