流星ワゴン、表現。

最近小説を読んでいなかった。大好きな浅田先生の作品で読みたいものを、あらかた読んでしまったから。
他の作家の小説もちょこちょこ読むけど、他の作品も読みたい!と食いつく作家もいなかった。

小説を読まないと、ずっと携帯電話を触り続けるオレは、その不健康を久しぶりに取っ払うべく、流星ワゴン(作 重松清)を読み始めた。

親子という関係を清々しく描かれていて、加えて舞台が現代ということもあって、一気に読み終えてしまった。
主人公たちとは年代が近いため親近感を覚えつつも、全く異なる境遇に身を置くオレは、理解も想像も共感もできるにも関わらず、実感が乏しいため、やや引いた目で読んでしまった。

根底に流れる「日々の生活における幸せの不確かさ」への認識と「苦境にあっても前へ進む努力の美しさ」は、拙作「Alices」や「セツナイ太陽」と共通していて、同時代性を感じる。
ま、普遍的なテーマではあるけれども。

先日、人からあるイベントの撮影を頼まれた際、「記録と表現の両方を撮りましょうか」という言葉が、瞬間的に出た。
室内だし、夜だし、できることは「偏る」けど、アグレッシブに撮ろうと思う。

セツナイ太陽の展示風景の現像とプリントがあがってきたので、百音へ持っていった。
「記録」よりも、「表現」が多く含まれている写真を百音のアルバムに置いてきた。

台風の後の順光の町並みは、やたら立体的できれいに見える。空も高い。
深呼吸をしてみたら、少しだけ涙がこぼれた。