透明化する身体 => Inbisible Way

誤解を招く表現が含まれることを認識しつつも、書こうと思う。

写真を撮っていると、知らず知らずのうちに、
すごく撮ることに集中してしまい、
自分の身体感覚がほとんど無くなるときがある。

ほとんどと言うのは、
カメラをホールドする左手と、
シャッターを切る右人差し指だけには
かすかに感覚が残っているから。
もちろん聴覚ぐらいは機能してるけど 笑

視覚(オレは左目が極端な利き目)と脳と
右人差し指が直結していて、その他は
何もない
宇宙にでもいるかのような感覚。
これは一カ所に留まる撮影なら、
なおさらで、この感覚に包まれやすくなる。

といっても、人物撮影では、
オレはしゃべる(=言葉でコミュニケーションをとる)し、
無言のコミュニケーションをとることもある。
そして、再び撮りはじめると、途端にすーっと、
まるで安らかな眠りにつくかのように感覚に包まれる。

眠りという表現は適切ではないかも。
身体感覚は決してゼロにはならないし、
取り戻すのは一瞬でできるから。

ムリヤリ例えれば、
意識が身体という器に満たされた液体だとして、
その液体が凝縮しつつ視覚神経と
脳あたりに集まって、
液体がない身体=器の部分が
透け見えている……そんな感覚。

液体がない部分を何かが
通過していくのを感じることができる。
透明化しているというか、形はあるのだけれど、
存在を認識していない、という、とてもヘンな感覚。


街撮りでは、オレは森山大道先生よろしく
スタスタとひたすら歩きながら
撮るということをする。
このときの感覚は、
どんどん液体が、
器の内側にびっしりと張り付いて、
身体の表面(つまり皮膚)が
とても鋭敏な感覚器になる。

背後にも目が付いているというと、
おおげさだけど、なんかしらの感覚が
信号を送っているのを感知して撮る。
ただひたすらに歩き、
そしてひたすらに撮る。

森山先生は著書「犬の記憶」のなかで
「擦過する」と表現している感覚は、
オレはすごくわかる。
たとえは悪いけど、
ガンダムでいうニュータイプみたいな 笑

<参考>2007年10月4日の「デザインフェスタへの道」
http://blogs.yahoo.co.jp/masashi_furuka/4226358.html

この感覚はすごく楽しいけど、
とても孤独な作業だし、
時間がかかるし、疲れるし。
作品の善し悪しを保証してくれるわけでもない 笑

最近してないな、街撮り。

撮らせていただいた人によく言われるのは、
撮られていることが気にならなくなる、とか、
フルカワさんの気配が薄くなる、とか、
リラックスできるとか、
自分が出せるとか、とか、とかとか。

人物で撮った写真を見て言われるのは、
距離感が独特だ、とか、
よく初対面でこんな表情撮れますね、とか、
女性が女性を撮った写真ですね、とか、
いい雰囲気ですね、とか、とかとか。

だから、オレは写真を撮り続けるし、
撮り続けられる、と思ってる。