セツナイ太陽について 1

展示の構想がほぼ固まったので、少しずつだけど「セツナイ太陽」に込めた想いを書いていこうと思う。

自己の肯定と否定を繰り返すなかで、いつも浮き彫りになるのが、自分を信用していないという事実。
その一方で、人からの信用や期待に応えようと反射的に動く自分が好きでもあり、嫌いでもあるという身勝手。

森山大道先生風に言えば、「のっぴきならない」心境にいつも揺られながら、そのような状況を容認しようと、他者にすがろうとしているくせに、そういうところでは素直じゃなくて、ただ単に流されているだけのように感じる。

ただただ感じるままにシャッターを切り、記録される風景に映り込む自分や、現実ばなれしていく映像に投影される疲労感を否定することも肯定することもできない。

それでもなお、撮りたい、と思うのはなぜだろうか。
ふとした瞬間、その場所にしかない空気と光に感応する。ただ、本当に、動物的な、それでいて人間的な、視覚と思考と神経が直結する瞬間。

少しの官能とともに、それと同じ質量の影が心の中に、スッと音を立てて立ち上がるのを感じる。

写真に写り込む被写体の光と影に、しばらくの間こころ奪われつつ、オレの心の光と影がただただそこに存在することだけを認識する。

で、それらは、なにも特別な場所や時間、人でなくてはならない、ということはない。
オレだけが特別な存在ではない。

つまりは、誰しも日常というかけがえのない瞬間を積み重ねていて、それぞれが特別なのであって、それが人生なんだと思う。

(つづく)