“もう一度光と戯れる” & “Not Photoshopped” そして・・・

6月18日(土)の展示開始が近づいてきて、制作も佳境です。

展示内容や作品のテーマは先日の展示案内の記事(2016年5月17日投稿「Masashi Furuka 3年半ぶりの展示ご案内」)に書いた通り、今回展示する作品は3系統の作品群です。

もちろん違う系統の作品なので、テーマやタイトル・モチーフが違うのですが、実は表現面では統一したコンセプトで作成しました。それはこの記事のタイトルである“もう一度光と戯れる”と、“Not Photoshopped”です。

“もう一度光と戯れる”というのは、すでに掲載している写真を見ていただくとわかる通り、多重露出を用いたり、マニュアルフォーカスで大きくぼかしてみたりと、カメラやレンズの基本的機能に立ち返って試行錯誤をしてみよう、というものです。

0005

etude20160426-002

なぜそういうことをしているかというと、「チャレンジと好奇心」という側面と「氾濫するスマホ写真への反抗(抵抗)」という側面があります。普段の仕事で撮るときには、なかなか踏み込みづらい領域の撮り方を今回の作品撮影で採用しました。まぁ3年半も制作を凍結していたのですから、その前後で同じことや同じやりかたを繰り返すのはあまりにも芸がないと思いますし(苦笑)。

こういう撮り方で自分の作品をつくったらどうなるだろう?という好奇心に忠実に一度やってみたいなぁ、と。これまでも変な撮り方はやったことあるんですけどね(「快楽原則」など)。撮影後にInstagramやPhotoshopで加工する楽しみもそれはそれであるし、俺も普段やってるんですけど、それはそれとして。

あと、仕事で撮る時もそうですが、「スマホでは撮れない写真」を常々意識しています。これはカメラマンだったら誰しもそうじゃないかな。コンデジはいうまでもなく。

あと、“Not Photoshopped” は上述の「カメラやレンズの基本的機能に立ち返って試行錯誤」したうえで、撮影した写真をPhotoshop(その他画像レタッチソフトも含む)を極力使わないで仕上げる、ということです。極力と書いたのは、モデルさんの顔のシミ取りとか、最低限のレタッチは作品という以上はしなければならないため。画像合成機能などは使用しない、という意味です。

なぜそうしたかといえば、前回の「File:04」ではPhotoshopの画像合成を前提として制作を進めたので、その反動です(苦笑)。

official_header04

うえの写真は、No Reason [051] 〜「File:05 死後」より〜 という作品の一部を切り抜いたものですが、これは多重露出というフィルムカメラ時代からある撮影手法で、Photoshopを使っていません。

一般的に画像合成をする際にPhotoshopを使う理由は、手間を省くためであることが多いです。コントロールの難しい多重露出で合成するよりも、別々に素材を撮影して、Photoshopのレイヤーで重ねる方が効率的だからです。

でも、今回の作品制作においてはそういう効率的なものに逆らっていこうとwww
たぶん、そうすることでPhotoshopを使った写真にはない「味」が出せると思っています。

ずいぶん長くなりましたが、最後に展示方法についてもう少し。

私が今回参加するイベントのコンセプトは「同じアパートに暮らしている作家たちが展示・販売する」ということなので、もちろん作品展示もしますが、私はちょっと今回の制作の裏側もお見せする予定です。そう!どれだけ非効率的か!!!をwww

というわけですので、お越しになられる方はそういう見方もしていただけると、より楽しめると思います。

※展示の案内は下記記事をご参照ください
展示案内の記事(2016年5月17日投稿「Masashi Furuka 3年半ぶりの展示ご案内」)

展示案内DM配布場所まとめ

 

Facebookやmixiで配布場所を流していたのですが、このブログの更新をすっかり忘れてしまっていて、配布から1週間ちょっとが過ぎてしまいました・・・すみません・・・そして絶句。

日が経っているので、在庫の様子がわからないのですが、お近くに寄った時などに見ていただければ幸いです。設置枚数は新宿眼科画廊さんがいちばん多いです。

<配布場所(敬称略・順不同)>

【渋谷】

Gallery Conceal

http://www.renovationplanning.co.jp/gallery_conc…/shibuya4f/

UPLINK

http://www.uplink.co.jp/

【新宿】

新宿眼科画廊

http://www.gankagarou.com/about.html

【原宿】

デザインフェスタ ギャラリー

http://www.designfestagallery.com/

【中野】

タコシェ

http://tacoche.com/

【代官山】

イーストウエスト 代官山サービスセンター

http://www.eastwest-inc.co.jp/servicecenter/index.html

【銀座】

アートスペース羅針盤

http://rashin.net

よろしくお願いします!

《展示参加イベント詳細》

13047753_1280765755271398_8184451231624058305_o

yokohama art apartment
(略称YAA)
開催日時: 2016年6月18日(土)〜19日(日)午後12時〜午後6時
入場料:無料
開催場所:artmania cafe gallery yokohama 全館 (計20ブース)
住所:〒231-0064 神奈川県横浜市中区野毛町3-122
電話/FAX:045-514-3980
イベント公式WEBサイト : https://yokohama-art-apartment.blogspot.jp

access

42 No Reason第32回撮影

※この記事は2011年4月に書いた記事 に加筆修正しています。

 

今回のモデルは、東山佳永さん。
そして、またまた登場の大河くん。

東山さんはダンス・パフォーマンサーで、
しなやかで美しい肢体の持ち主。
昨年の竜宮美術旅館でのパフォーマンスを拝見し、
オレからラブコールを送って、モデルの承諾をいただいた。

事前に、赤田さん、Natsukiさんを交えて顔合わせを
行ったさい、某邸宅が候補に挙がったのだが、
なにぶんオレが休職の身で先立つものがない。

なので、代わりになりそうなところを探した。
そして、見つけ、実際に足を運んだのが、
上北沢にある「賀川豊彦記念・松沢資料館」という場所。

コンクリートの壁面で構成されたモダン建築で、
光の庭などがあり、綺麗なところだ。

しかし、オレの目当ては、さらにこの中にある「礼拝堂」だった。

撮影の交渉をすると、ご担当の方がとても親切かつ丁寧で、
社会学にオレが詳しいことが伝わったらしく、ひどく感心してくださった。

そして、案内された「礼拝堂」は、
昭和6年建築、というもの。

空気の澱みがなく、すごく感じが良くて、この場所に決めた。

今回の作品テーマは、
「天女の出産死」
だった。

そして、当日ご参加いただいたのは、以下の方々。
・モデル 東山佳永さん
・モデル 大河くん
・付き添い かなちゃん
・スタイリスト 赤田さん
・メイク Natsukiさん
・撮影助手 さとこさん
・撮影 Masashi Furuka

と、久々に大がかりの撮影になった。

というのも、作品テーマの通り、
これまで「死」のみが多くを占めた作品に、
新しく「生」、しかも「出産」を入れる、という
作品としては大きな転換点ともなりうる作品。

当日、記念館と予約時間のやり取りがうまくいってなかったのが
発覚し、撮影時間が少なくなってしまった。オレのせいだ。

赤田さんのスタイリングが冴える。

Natsukiさんも天女をイメージし、
素敵なヘアメイクだった。

撮影は巻きで進む。

メインカットをなんとか数パターン撮り終え、
あとは、東山さんの宣材を撮影。

とにかく逆光に透ける身体のラインが、
とても美しい。

そして、撮影終了。

実は、当初決めた料金よりも、
値引きして下さった。本当に「売れない写真家」にとっては、
涙が出るほどありがたい。

しかし、その浮いたお金で、
打ち上げでみんなで昼食www

入った地元の店が、またすごくて、
嘘みたいな大盛りや、意表を突く盛りつけで、
一同苦笑しっぱなし。

東山さんとNatsukiさんは、
オレが見つけていた銭湯へ。

そして、今回初の助手を申し出ていただいた
さとこさん、ありがとうございました。

礼拝堂の椅子の出し入れなど力仕事なども
手伝っていただいたり、高低を利用したカットの際に
フラッシュなどを移動していただいたり、
本当に助かりました。

オレは疲れてしまい、即帰宅したのであります。

で、このシリーズは、これまで使っていなかった「合成」を
使うことを前提としています。

小さい写真では、わからないのですが、
右下に輝くのは「カシオペア座」。

星座が意図するもの、それが伝わることを祈っています。

1008079296_245

41 No Reason第31回撮影

※この記事は2011年2月に書いた記事 に加筆修正しています。店名などは当時のものを使用しておりますが、現在は営業されていません。

 

実は1月中旬に撮影していたモデルさんが、一家急病のため、
延期になってしまい、2011年初めての疑似死体撮影は、
1月末日だった。

場所は、麻布十番にある、友人中山さんのお店
ナラコン(正式名称:「ヨルcafe/bar ナラ cON-temporary」を
お借りして撮影した。

撮影途中、イベントでお世話になった
おかみさんにもご挨拶できた。
いろんな人たちに見守られて、
オレは作品を作り続けている。

この日のモデルは、Mammyさん。

デザフェスの出展者一覧でオレの写真をみつけて、
デザフェスでブースまで来てくれて、モデルにしてください、
と依頼をしていただいた方。
個展にも来てくださった。ありがたい限りだ。

衣装は、そのデザフェスで使用されていた
メイド服w

そして、ヘアメイクはNatsukiさん。

Mammyさんは被写体も何度かしているそうだが、
事前に参考までに送ってもらった写真が、
残念な出来だったので、まずはオレの腕を信用して
もらうことからはじめる。

「自分じゃないみたい」

メイドという設定なので、今回はナチュラルメイクなのだが、
Natsukiさんとオレの魔法だ。

合計2シーン撮ったのだけれど、
撮影するにつれ、
Mammyさんは綺麗になっていく。

疑似死体なのに、表現はおかしいが、
モデルさんも「気持ちが入る」のだ。

採用シーンは、最初に撮ったほうにすることにした。

No Reasonの中では珍しく4灯も使った
凝ったライティング。

オレの用意した小道具や、
ナラコンにある小道具も
スパイスとして効いている。

撮影後は、中山さんにご無理を言って
休業日なのに、料理と飲み物を
つくっていただいた。

客はオレたち3人だけ。

でも、NatsukiさんもMammyさんも
また来たい、
友達に紹介したい、
と言ってくださった。

写真を構成する上で、
その場の「空気」はとても重要だ。

撮影準備の間、中山さんも、
Natsukiさん、Mammyさんと話していた。

そう、この写真には、
この店の「空気」をつくっている
中山さんの心まで映っている。

いつまでも繰り返す波音のように。

たまには徒然にいま思っていることを書こうと思って。

ここ数年俺の中でずっとSNSに対してあった「もやもや」を晴らしてくれた最果タヒさんのエッセイ「わからないぐらいがちょうどいい」(雑誌「考える人」 2016年春号)がきっかけになって思うことがあって。(ちなみにこのエッセイはとてもいい文章なので機会があれば、手にとってぜひ読んでいただきたい)

制作を再開してからは「消費されない作品を目指したい」とずっと思っていて。「消費されない=売れない」という意味ではなく、「消化されない」と言ったほうがいいかも。

すごく感覚的なのだけれど、表現したこと、写真でもテキストでも動画でも、SNSで「シェア」されたり「いいね」されることって、嬉しくてとてもありがたいのだけれど、その一方で、それだけで「なんらかの行為が終了」して「消費されてしまった」感じってありませんか?なんか一抹の寂しさを覚えてしまうような。

「いいね」がない時代って、なんらかの表現に対しては、みんな言葉(=コメント)を書いたり書かなかったりという行為で意思を示すことでコミュニケーションを成立させていたと思うのです。

それが、いつだったかタイムラインをざっと流し読みしながら「いいね」を反射的にただただ押す作業をしていた自分に気づいてゾッとしてしまって・・・

なんか違うぞ?と。

思考結果でも身体反応でもない、ただただ機械的な作業。

俺が「いいね」を押したりシェアしている記事って、フレンドの誰かに役にたつよね?と思い込みながら、フレンドに俺のセンスがいいってことを知らしめたいと鼻を鳴らしながら。

でも、それって、何を生み出すんだろう、って。
それがコミュニケーションとして成立するのか?って。

昨日一緒に旧友と国立新美術館へ展示を見に行き、その後呑みながら話した言葉をベースに絵露愚乱末世4のステートメントをいまつくっています。話していた内容は上述したようなSNSなどのツールによって消費され擦り切れてしまうような感覚と、それが作家の立場としては俺は嫌だという話で。

で、書いてると、俺が No Reason をやり始めた頃のことがいろいろフラッシュバックしてくるのです。

ファンになってくれたひとや、応援してくれたひと、ヘアメイクさんやスタイリストさん、が次々に出てきて・・・。作品を見つけて立候補してくれるモデルさんや推薦・紹介でモデルになってくれる方も次々に。

mixi のツールとしての力も大きかったけど、なんで、そのような渦潮みたいなものができたんだろうか?って。まぁそれについては本筋から大きく外れるので、またいつかの機会にして(苦笑

そんなこんな考えていると、疑似死体写真という表現はシェア数やいいねの数で他の作品と競う類の表現ではない、と心のどこかでずっと思っていて。冒頭のことのようなことを考えていたら、「わからないぐらいがちょうどいい」という言葉と「消費(消化)されない表現」が結びついた。

作品はわからないぐらいが現代ではちょうどよくて、それは繰り返す波音のように、折に入って俺たちの感覚にさざめきをもたらす。そういうものがいいな、と俺は今思うし、作りたいと思っています。