たまには徒然にいま思っていることを書こうと思って。
ここ数年俺の中でずっとSNSに対してあった「もやもや」を晴らしてくれた最果タヒさんのエッセイ「わからないぐらいがちょうどいい」(雑誌「考える人」 2016年春号)がきっかけになって思うことがあって。(ちなみにこのエッセイはとてもいい文章なので機会があれば、手にとってぜひ読んでいただきたい)
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制作を再開してからは「消費されない作品を目指したい」とずっと思っていて。「消費されない=売れない」という意味ではなく、「消化されない」と言ったほうがいいかも。
すごく感覚的なのだけれど、表現したこと、写真でもテキストでも動画でも、SNSで「シェア」されたり「いいね」されることって、嬉しくてとてもありがたいのだけれど、その一方で、それだけで「なんらかの行為が終了」して「消費されてしまった」感じってありませんか?なんか一抹の寂しさを覚えてしまうような。
「いいね」がない時代って、なんらかの表現に対しては、みんな言葉(=コメント)を書いたり書かなかったりという行為で意思を示すことでコミュニケーションを成立させていたと思うのです。
それが、いつだったかタイムラインをざっと流し読みしながら「いいね」を反射的にただただ押す作業をしていた自分に気づいてゾッとしてしまって・・・
なんか違うぞ?と。
思考結果でも身体反応でもない、ただただ機械的な作業。
俺が「いいね」を押したりシェアしている記事って、フレンドの誰かに役にたつよね?と思い込みながら、フレンドに俺のセンスがいいってことを知らしめたいと鼻を鳴らしながら。
でも、それって、何を生み出すんだろう、って。
それがコミュニケーションとして成立するのか?って。
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昨日一緒に旧友と国立新美術館へ展示を見に行き、その後呑みながら話した言葉をベースに絵露愚乱末世4のステートメントをいまつくっています。話していた内容は上述したようなSNSなどのツールによって消費され擦り切れてしまうような感覚と、それが作家の立場としては俺は嫌だという話で。
で、書いてると、俺が No Reason をやり始めた頃のことがいろいろフラッシュバックしてくるのです。
ファンになってくれたひとや、応援してくれたひと、ヘアメイクさんやスタイリストさん、が次々に出てきて・・・。作品を見つけて立候補してくれるモデルさんや推薦・紹介でモデルになってくれる方も次々に。
mixi のツールとしての力も大きかったけど、なんで、そのような渦潮みたいなものができたんだろうか?って。まぁそれについては本筋から大きく外れるので、またいつかの機会にして(苦笑
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そんなこんな考えていると、疑似死体写真という表現はシェア数やいいねの数で他の作品と競う類の表現ではない、と心のどこかでずっと思っていて。冒頭のことのようなことを考えていたら、「わからないぐらいがちょうどいい」という言葉と「消費(消化)されない表現」が結びついた。
作品はわからないぐらいが現代ではちょうどよくて、それは繰り返す波音のように、折に入って俺たちの感覚にさざめきをもたらす。そういうものがいいな、と俺は今思うし、作りたいと思っています。