「死んだあとの私」という想像的視座 より

たしか今年の2月ぐらいに、颯爽堂で見かけて購入した本。
「邪悪なものの鎮め方」
出版社バジリコの木星叢書です。

著者は内田樹さんという神戸女学院大学の教授。
「日本辺境論」は読んでないけど、所々の本屋でみかけたから、
有名な方じゃないかな。茂木健一郎とかも本には名前として出てくるし。

で、この本を買ったのは、タイトルもそうだけど、前書きがとてもよかった。

おそらくダンテの「神曲」を読んだあとだからというのも関連している。

(略)
つまり、「邪悪なもの」との遭遇とは、「どうしていいかわからないけれど、何かしないとたいへんなことになるような状況」というかたちで構造化されているということです。

他の本もそうですけれど、私はここ数年「どうふるまっていいかわからないときに適切にふるまうためにはどうすればいいか」というなんだかわかりにくい問いをめぐって考えてきました。

(略)

その問題を解決する手だてが示されていないときに、過たずその手だてを選ぶことができるような知、私はそれを「先駆的な知」と呼んでいます。喩えて言えば、「清水の舞台から飛び降りる」というような切羽詰まった状況において、下を見ずに「えいや」と欄干を超えても、ちゃんとセーフティネットが張ってあるところに飛び降りることができるような直感の働きのことです。

「邪悪なもの」をめぐる物語は古来無数に存在します。そのどれもが「どうしていいかわからないときに、正しい選択をした」主人公が生き延びた話です。主人公はどうして生き延びることができたのでしょう。

私自身のみつけた答えは「ディセンシー」(礼儀正しさ)と、「身体感度の高さ」と、「オープンマインド」ということでした。

どうしてそういうことになるのか。それについては、本文をお読みください。

と、こんな調子で、「知」の匂いがぷんぷんしていてw

その中で、「自殺サイト」の学的考察について筆者が
NHKから取材を受けたときの話(第三章 正気と狂気のあいだ
霊的感受性の復権 『「死んだあとの私」という想像的視座』)があり、
興味深いことばがあるので、いくつか引用させていただきます。
(問題あるようなら削除します)

ちなみに「霊的感受性の復権」は、
オレが作品のキャッチコピーに書いている
《わたしたちの日常に再び「生と死」を取り戻す(英文キャッチコピーでは the lost sences)》とほぼ同義だと思います。

私の仮説は次のようなものである。
まず一般的な確認として、
「死んだときの私」という想像的な消失点から現在を回顧的に見る力が、ほかならぬこの現実にリアリティを与えている。

(略)

日々我が身に起きている出来事の「ほんとうの意味」は「私という物語」を読み終えるまで私は知ることができない。にもかかわらず日々の出来事に感動できるのは、「『私という物語』を読み終えた私」を想像的に措定して、その仮説的視座から現在を回顧しているのである。

(略)

でも、「死んだ私」という想像的視座に立つことなしには、「いまこの瞬間のリアリティ」を形成することはできないのである。

「今この瞬間のリアリティ」を基礎づけるのは、「今この瞬間」を含む物語の全体だからであり、「物語」の中で「今この一瞬」が何を意味しているのかを知るためには、どうしたって「私という物語」を読み終えていなければならないからである。

だが、想像力が足りない人は「死んだあとの私」を物語的に想像することができない。
彼らがかろうじて想像できるのは「今の私のままで死んだ私」である。成長も経験も出会いも変化も加齢も何も起こらない「無時間的な人世」が終わった瞬間の私である。

「無時間的な人世」というのはよく考えると論理矛盾だけれど、ひとつだけそれを具体化できる契機が存在する。
自殺である。

(略)

「今の私」であることに固執し、かつ「今の私であることのリアリティの希薄さ」に耐えられない人間は、「今の私のまま死んだ私」という想像的消失をたてることでかろうじて、今の無意味さと非現実性に耐えることができる。

だから、自殺サイトが繁盛する。

逆説的な話だが、「今この瞬間をやりすごすためには、自殺することを想像するしかない」という事況は「よくあること」なのである。
それは想像力の不足がもたらす出口のないループである。

オレがよく言う「死ぬこと(死んだときのこと)を考えることは、生きることを考えることに等しい」ことを、うまく説明している名文だと思う(オレはできない(汗))。

しかし、(本題のテーマとは異なるため当然だけれど)、
この文章では「なぜ人は自殺するのか」という問いに答えることはできない。

それについては、また別の機会で。もちろん正解はないけれども。