セツナイ太陽について 2

ふとした瞬間にまぶしく感じる光。濃さを増す、心に落ちる影。

上の言葉は、セツナイ太陽のキャッチコピー的なもの。
心という言葉でわかる通り、「光」「影」は、なにも視覚的なものだけを意味しているわけではない。

自分の存在を証明することは、自分独りだけでは不可能で、必ず他者が存在してはじめて自分の存在が「証明される」と、オレはいつも考えている。

そう、鏡に映った自分を見てはじめて、自分の顔を認識できるように。

人と人との関係は、心の交流は、光と影のように、照らす光が反射したり、吸収されたり、影を落としたり。

そういうものだと思っている。

(つづく)

最近聞いている音楽とか

最近は、数カ月に一度、思い出したかのようにHMVに行って、お気に入りのアーティストの新譜がないかとか、試聴して気に入るのがないか探す程度。

というのも、最近は周りから「これがオススメ」とか、「これ好きでしょ?」など音楽の話をする機会がないから。

あとは、適当にiTMSで衝動買いするぐらい。

最近のマイブームは、意外(?)と国内さわやか系。FreeTEMPOとかWeekendersがヘビーローテーションです。
とくに、WeekendersのBeautiful Dreamerは今年の春から、ずっとお気に入り。
せつな気持ちいい、感じです。

あと安くなってから買おうと思ってるのが、オフスプリングの新譜。
テクノ系は相変わらずジャケ買いです。

イエモンの「バラ色の日々」を聞いて、やはり朝本浩文サイコー! と思った。

セツナイ太陽について 1

展示の構想がほぼ固まったので、少しずつだけど「セツナイ太陽」に込めた想いを書いていこうと思う。

自己の肯定と否定を繰り返すなかで、いつも浮き彫りになるのが、自分を信用していないという事実。
その一方で、人からの信用や期待に応えようと反射的に動く自分が好きでもあり、嫌いでもあるという身勝手。

森山大道先生風に言えば、「のっぴきならない」心境にいつも揺られながら、そのような状況を容認しようと、他者にすがろうとしているくせに、そういうところでは素直じゃなくて、ただ単に流されているだけのように感じる。

ただただ感じるままにシャッターを切り、記録される風景に映り込む自分や、現実ばなれしていく映像に投影される疲労感を否定することも肯定することもできない。

それでもなお、撮りたい、と思うのはなぜだろうか。
ふとした瞬間、その場所にしかない空気と光に感応する。ただ、本当に、動物的な、それでいて人間的な、視覚と思考と神経が直結する瞬間。

少しの官能とともに、それと同じ質量の影が心の中に、スッと音を立てて立ち上がるのを感じる。

写真に写り込む被写体の光と影に、しばらくの間こころ奪われつつ、オレの心の光と影がただただそこに存在することだけを認識する。

で、それらは、なにも特別な場所や時間、人でなくてはならない、ということはない。
オレだけが特別な存在ではない。

つまりは、誰しも日常というかけがえのない瞬間を積み重ねていて、それぞれが特別なのであって、それが人生なんだと思う。

(つづく)

ポートフォリオ展@デザインフェスタギャラリー開幕!

ということで、あっという間にポートフォリオ展が開幕。
いま神宮前の喫茶店です。(カフェではなく喫茶店というのがミソ)

で、作品はと言うと、先日の告知通り、新作1枚とポートフォリオ=ブック(Alices)を展示。

セツナイ太陽のDMもあります。

見たところ、前回より参加者が増えています!!なんかうれしい!